2018年10月25日
キリシタン墓地

鹿児島市の福昌寺跡地の裏山に「キリシタン墓地」がある。狭い石段を登った先に、十字が彫られた苔むした自然石と、明治38年に造られた祭壇型の合同墓碑が木陰に囲まれている。
二十数年前、福昌寺跡地近くを散策している時に、小さな「キリシタン墓地」の案内表示を見つけた(現在はアルミ合金版になっているが当時は木製だった)。鹿児島に隠れキリシタンがいたという話は聞いたことがなかったので、いぶかしながらも坂道を登って行った。
「墓地」に鹿児島市教育委員会作製の説明板があったものの、簡潔すぎてよくわからなかった。県立図書館に何度か足を運びながら調べた。調べるほどに福昌寺やキリシタン墓地が、歴史的に非常に貴重な場所であることが分かった。
写真は、調べたことを記事にした1996年の『自治労かごしま』正月号。発行して数日後、県職員から電話がかかってきた。「鹿児島にキリシタンがいたなどと、でたらめな記事を載せるな」という怒りの電話だった。リード文と写真のキャプションくらいしか読まずに抗議していると思ったので、「記事全部を読んでください。お時間があれば福昌寺跡に足を運ばれた後、またお電話ください」と伝えた。その後、なしのつぶてだった。この県職員のためだけでも、この記事を書いてよかったと思った。
長崎の大浦天主堂の建設が、潜伏キリシタンの「信徒発見」につながり、関連物が世界遺産に今年登録された。「信徒発見」はバチカンにとっては奇跡的なハッピーなことだったが、江戸幕府のみならず明治の新政権も「邪教」として「浦上四番崩れ」の弾圧を加える。この信徒たち約2000人は各地に流刑に。鹿児島へは明治3年1月、375人の一団がいづろ波止場に降ろされた。収容されたのは前年夏に廃仏毀釈で廃寺になったばかりの福昌寺。
明治6年にキリシタン禁制は廃止され、流刑者は帰郷が許される。しかしそれまでに同地で53人が亡くなり「キリシタン墓地」に葬られた。長崎に帰った者の中には、明治8年からの天主堂の大規模な増改築を手伝ったものもいたことだろう。
流刑にあった時は、西郷隆盛は薩摩に帰郷している。「流刑者がどこより丁寧に扱われたのは鹿児島だった。明治二・三年は西郷隆盛が担当した藩政である。西郷の名は、直接出て来ないが、信者厚遇の背景に西郷がいるように思われる」と書いてある書籍も残っている。
「西郷どん」ブームと、潜伏キリシタンが話題になっている今、スポットを当ててほしい場所だと思う。