2016年05月23日
乱歩と養源寺
先日の東京行きでは、天文館「鶴八」のママのお墓参りも。亡くなってから20年ほどになる。ママは30歳頃に、恩赦で出所し谷中で暮らしていた阿部定を見たことや、時局が悪化した戦中に夫の仕事関係で満州に渡り大連のダンスホールでは男装の麗人・川島芳子と会ったことなどを話していた。福岡を経て鹿児島に引き上げてからは、夫とも別れ「天涯孤独」だった。亡くなった後、常連客の調べで、父親の墓が東京・谷中にあることが分かり、そこに納骨した。

話は飛ぶが、江戸川乱歩が没後50年を経たため、彼の作品がパブリックドメイン(著作権フリー)になった。「青空文庫」でデジタル化が進められ、タブレットで読める「Kindle・無料版」も『二銭銅貨』を皮切りに、その後、心理試験、D坂の殺人事件、人間椅子、怪人二十面相、日記帳、少年探偵団、指環、パノラマ島綺譚がアップされている。

わたしはこれまで、二銭銅貨から日記帳まで読み、今日(5月23日)『少年探偵団』を読み始めた。黒い魔物と探偵団の対決話だ。ストーリーが始まってすぐに、団員が黒い魔物の後姿を見つける。
そして話は「町をはなれ、人気のない広っぱを少し行きますと、大きな寺のお堂が、星空にお化けのようにそびえて見えました。養源寺という江戸時代からの古いお寺です。
黒い魔物は、その養源寺のいけがきに沿って、ヒョコヒョコと歩いていましたが、やがて、いけがきのやぶれたところから、お堂の裏手へはいってしまいました。
・・・・見ると、そこは一面の墓地でした。古いのや新しいのや、無数の石碑が、ジメジメとこけむした地面に、ところせまく立ちならんでいます。空の星と、常夜灯のほのかな光に、それらの長方形の石が、うす白くうかんでいるのです。」と続く。
実は、ママのお墓があるお寺が「養源寺」。お寺と墓地の感じが作品に書かれている情景とよく似ている。「養源寺」が「江戸時代からの古いお寺」ということは、江戸切絵図「東都駒込邉絵図」にも記されている。





『少年探偵団』は玉川電車(戦後すぐの)沿いが事件現場に想定されているが、沿線沿いにある森巌寺、乗泉寺、円泉寺には当時、墓地・霊園はなく、作中の「養源寺」は谷中の「養源寺」だと思った。
ママの墓参後、近くの団子坂を下って東京メトロの千駄木駅に向かったが、この団子坂は乱歩の作品で初めて明智小五郎が登場する『D坂の殺人事件』のD坂である。乱歩は結婚後の一時期は団子坂に住んでいたし、三重県から上京し団子坂で兄弟三人と三人書房と名付けた古本屋を始めている。このことからも、寺のモデルは谷中の「養源寺」と確信した。
さて、わたしは、もう一度、『少年探偵団』の話の中に戻らなければなりません(乱歩風)。

話は飛ぶが、江戸川乱歩が没後50年を経たため、彼の作品がパブリックドメイン(著作権フリー)になった。「青空文庫」でデジタル化が進められ、タブレットで読める「Kindle・無料版」も『二銭銅貨』を皮切りに、その後、心理試験、D坂の殺人事件、人間椅子、怪人二十面相、日記帳、少年探偵団、指環、パノラマ島綺譚がアップされている。

わたしはこれまで、二銭銅貨から日記帳まで読み、今日(5月23日)『少年探偵団』を読み始めた。黒い魔物と探偵団の対決話だ。ストーリーが始まってすぐに、団員が黒い魔物の後姿を見つける。
そして話は「町をはなれ、人気のない広っぱを少し行きますと、大きな寺のお堂が、星空にお化けのようにそびえて見えました。養源寺という江戸時代からの古いお寺です。
黒い魔物は、その養源寺のいけがきに沿って、ヒョコヒョコと歩いていましたが、やがて、いけがきのやぶれたところから、お堂の裏手へはいってしまいました。
・・・・見ると、そこは一面の墓地でした。古いのや新しいのや、無数の石碑が、ジメジメとこけむした地面に、ところせまく立ちならんでいます。空の星と、常夜灯のほのかな光に、それらの長方形の石が、うす白くうかんでいるのです。」と続く。
実は、ママのお墓があるお寺が「養源寺」。お寺と墓地の感じが作品に書かれている情景とよく似ている。「養源寺」が「江戸時代からの古いお寺」ということは、江戸切絵図「東都駒込邉絵図」にも記されている。





『少年探偵団』は玉川電車(戦後すぐの)沿いが事件現場に想定されているが、沿線沿いにある森巌寺、乗泉寺、円泉寺には当時、墓地・霊園はなく、作中の「養源寺」は谷中の「養源寺」だと思った。
ママの墓参後、近くの団子坂を下って東京メトロの千駄木駅に向かったが、この団子坂は乱歩の作品で初めて明智小五郎が登場する『D坂の殺人事件』のD坂である。乱歩は結婚後の一時期は団子坂に住んでいたし、三重県から上京し団子坂で兄弟三人と三人書房と名付けた古本屋を始めている。このことからも、寺のモデルは谷中の「養源寺」と確信した。
さて、わたしは、もう一度、『少年探偵団』の話の中に戻らなければなりません(乱歩風)。
2016年05月18日
2016年05月16日
2016年05月14日
若冲展・顛末記

いよいよ若冲展に。5月11日、午前9時30分の開館時間に都美術館に着くようにホテルを出発。4月22日から5月24日まで開催されるこの展覧会の鑑賞日をこの日に決めたのは、①スタートの4月22日から大型連休最終日の5月8日までは大混雑、②その後の土日も、③5月16日以降は見逃した人がわんさとおしかける、④特に5月18日は65歳以上無料の日なのでダメ、などの理由から。11日は期間のちょうど中日でしかも平日。これならゆっくりみられると踏んでいた。
ところが、上野公園に足を踏み入れた途端、4つの理由が浅はかであったことを見せ付けられた。園内の美術館・博物館で黒田清輝、シルクロードの秘宝、恐竜博、 カラヴァッジョの展覧会が開かれているにもかかわらず、都美術館に足早に向かう人しかいなかった。私たちは計画通り9時30分に美術館前に着いたが、展示会場の地下1階に向かうエスカレータから、すでに500メートルの列ができていた。


展覧会を見終わった後、喫煙所に行くと2、3人が雑談していた。「今日は絶対混雑しないと思って来た」と、口々にいっている理由が私と同じ4つの理由だった。展覧会を主催している日経新聞によると、入場者数は5月2日で10万人を、5月10日で20万人を突破したそうだ。9日は休館日だったので1日平均1万3千人になる。この日は、混雑しない日と勝手に思い込んだ人達の分よけいに入場者が増え、平均を上回っていたのではないか。
長蛇の列がゆっくり進み、エスカレータを降りたのが11時。並び始めてから1時間30分経っている。ようやく観られると思ったが、地下1階のフロアーでチケットを渡すまで、さらに30分待たされ、会場に入ったのは11時30分を回っていた。
会場内に入ってからも一苦労。展示場所に一番近い列に並んだが、とにかく動かない。まったく動かない。列の先のほうを見ていると、「若冲・渋滞理論」を発見した。若冲の絵は細密描写なので、絵の前で立ち止まる人が多い。立ち止まった前の人が動いて空間が出きるが、そこに展示場所から2列目の人が1列目の空間に入り込む。このため、立ち止まった人に続いている列は動かない。この繰り返しが続くため渋滞になっていた。約80点の作品を見終わるまで3時間ほどかかった。渋滞はミュージアムショップのレジでの支払いまで続いた。会場を出ると、朝と同じ行列の光景が目に入った。

この後、カラヴァッジョ展に行ったが、若冲の絵のことやカラヴァッジョについては、また後日。
2016年05月13日
明日の神話
日本とイタリアの「奇想の系譜」、若冲展とカラヴァッジョ展を観に5月10日から3日間東京に。


2人の作品以外にもう1点見ておきたいものがあった。岡本太郎の「明日の神話」。

岡本作品との最初の出会いは1960年代後半の高校生の時。近くの公民館で「超現代美術展(名称は不明確)」が開かれた。公民館と言っても「都市型公民館」発祥の地であり美術展示室も設けられていた。切り裂かれたキャンバス、ファスナーが取り付けられたキャンバス、覗きからくりのような作品物と一緒に、一つ目少女と機関車の中村宏や岡本太郎の絵画が展示されていた。岡本の作品が「痛ましき腕」風だったか、「千手」風だったか、記憶はあいまいだが強烈な印象だけは残っている。
「明日の神話」は2003年にこメキシコで見つかったものの、破損が激しく修復・公開・展示までに相当な資金が必要との報道が流れた。糸井重里の「ほぼ日新聞」で、2006年から「TAROコイン」の販売金を修復等の基金に当てる企画が始まった。太郎ファンとしては修復された巨大作品を見てみたいと、家族4人分購入した。購入した人の氏名で岡本太郎の顔を描く企画も、コイン購入の理由である。



「明日の神話」は2008年末に渋谷マークシティに展示された。思い入れがあるだけに一目みたいと思っていた。東京出張はたびたびあったが、ほとんど日帰りのため足を向ける機会をなくしていた。そしてようやくその日が。
JR渋谷駅と京王井の頭線の通路にあるとの情報を頼りに、10日夕方、山手線から井の頭線の改札口に「右手方向」を気にしながら向かった。しかし、井の頭線の改札口が見えるところまで来ても作品が見当たらない。通路を間違ったのかと振り向きざまに「右手方向」に巨大作品があった。報道されている写真が井の頭線方向からの写真が多かったため、ついつい「右手方向」「右手方向」と刷り込まれてしまっていたようだ。

通路を行き交う人達は悲しいくらいに作品に目もくれず、歩きスマホか無関心。作品が展示されてから8年も経っているので致し方ないのかもしれない。みんな「今日」に精一杯生きているのだろう。グルメ展でもないのだし。
でも「明日」の自分をふと思った時に、ここに来て見上げれば何か伝わる、それでいいのだから。



2人の作品以外にもう1点見ておきたいものがあった。岡本太郎の「明日の神話」。

岡本作品との最初の出会いは1960年代後半の高校生の時。近くの公民館で「超現代美術展(名称は不明確)」が開かれた。公民館と言っても「都市型公民館」発祥の地であり美術展示室も設けられていた。切り裂かれたキャンバス、ファスナーが取り付けられたキャンバス、覗きからくりのような作品物と一緒に、一つ目少女と機関車の中村宏や岡本太郎の絵画が展示されていた。岡本の作品が「痛ましき腕」風だったか、「千手」風だったか、記憶はあいまいだが強烈な印象だけは残っている。
「明日の神話」は2003年にこメキシコで見つかったものの、破損が激しく修復・公開・展示までに相当な資金が必要との報道が流れた。糸井重里の「ほぼ日新聞」で、2006年から「TAROコイン」の販売金を修復等の基金に当てる企画が始まった。太郎ファンとしては修復された巨大作品を見てみたいと、家族4人分購入した。購入した人の氏名で岡本太郎の顔を描く企画も、コイン購入の理由である。



「明日の神話」は2008年末に渋谷マークシティに展示された。思い入れがあるだけに一目みたいと思っていた。東京出張はたびたびあったが、ほとんど日帰りのため足を向ける機会をなくしていた。そしてようやくその日が。
JR渋谷駅と京王井の頭線の通路にあるとの情報を頼りに、10日夕方、山手線から井の頭線の改札口に「右手方向」を気にしながら向かった。しかし、井の頭線の改札口が見えるところまで来ても作品が見当たらない。通路を間違ったのかと振り向きざまに「右手方向」に巨大作品があった。報道されている写真が井の頭線方向からの写真が多かったため、ついつい「右手方向」「右手方向」と刷り込まれてしまっていたようだ。

通路を行き交う人達は悲しいくらいに作品に目もくれず、歩きスマホか無関心。作品が展示されてから8年も経っているので致し方ないのかもしれない。みんな「今日」に精一杯生きているのだろう。グルメ展でもないのだし。
でも「明日」の自分をふと思った時に、ここに来て見上げれば何か伝わる、それでいいのだから。
