2019年07月18日
鶴田義行さん②
水泳平泳ぎオリンピック2連覇の鶴田義行さんについての続報です。
県立図書館で、当時の地元新聞が鶴田選手の活躍をどのように伝えたか調べてきました。
まず当時鹿児島には「鹿児島朝日新聞」と「鹿児島新聞」の2紙が発行されていました(紆余曲折はありますが、この2紙が「南日本新聞」に統合されます)。
図書館には「鹿児島朝日新聞」がマイクロフィルムで、「鹿児島新聞」が紙(タブロイドサイズに青焼き)で保存されています。ただし昭和3年(アムステルダム大会の年)は両紙ともありましたが、昭和7年(ロサンゼルス大会の年)は「鹿児島朝日新聞」のマイクロフィルムが劣化して見ることができませんでした。
コピーしてきた写真は「題字」を含めて7枚で順に
①「鹿児島朝日新聞」の題字

②アムステルダム準決勝を伝える記事(昭和3年8月9日付)

③アムステルダム決勝を伝える記事(昭和3年8月10日付)

④「鹿児島新聞」の題字

⑤アムステルダム準決勝を伝える記事(昭和3年8月9日付)
一番鶴田選手にスポットを当てている紙面は⑤です。鶴田選手の全身写真が大きく扱われています。子供時代の「怪河童」ぶりのエピソード記事もあります(エピソード(1)とされていますが(2)以降は見当たりませんでした)。また記者が伊敷の実家に予選トップ通過を伝えに行った記事もあります。夕飯時に近所の人も集まっており、70歳を超す祖母は食事もそっちのけで踊りだし、父親は記者が「優勝(金メダル)間違いない」と言えば「決勝を待たなければ」と言いながらもほほが緩んでいたと伝えています。地元の熱狂ぶりが分かります。

⑥アムステルダム決勝を伝える記事(昭和3年8月10日付)

⑦ロサンゼルス決勝を伝える記事(昭和7年8月15日付)
鶴田選手が2連覇したロス大会の記事ですが、当時はオリンピック連覇のすごさが分かっていなかったのか、連覇については触れていません。

県立図書館で、当時の地元新聞が鶴田選手の活躍をどのように伝えたか調べてきました。
まず当時鹿児島には「鹿児島朝日新聞」と「鹿児島新聞」の2紙が発行されていました(紆余曲折はありますが、この2紙が「南日本新聞」に統合されます)。
図書館には「鹿児島朝日新聞」がマイクロフィルムで、「鹿児島新聞」が紙(タブロイドサイズに青焼き)で保存されています。ただし昭和3年(アムステルダム大会の年)は両紙ともありましたが、昭和7年(ロサンゼルス大会の年)は「鹿児島朝日新聞」のマイクロフィルムが劣化して見ることができませんでした。
コピーしてきた写真は「題字」を含めて7枚で順に
①「鹿児島朝日新聞」の題字

②アムステルダム準決勝を伝える記事(昭和3年8月9日付)

③アムステルダム決勝を伝える記事(昭和3年8月10日付)

④「鹿児島新聞」の題字

⑤アムステルダム準決勝を伝える記事(昭和3年8月9日付)
一番鶴田選手にスポットを当てている紙面は⑤です。鶴田選手の全身写真が大きく扱われています。子供時代の「怪河童」ぶりのエピソード記事もあります(エピソード(1)とされていますが(2)以降は見当たりませんでした)。また記者が伊敷の実家に予選トップ通過を伝えに行った記事もあります。夕飯時に近所の人も集まっており、70歳を超す祖母は食事もそっちのけで踊りだし、父親は記者が「優勝(金メダル)間違いない」と言えば「決勝を待たなければ」と言いながらもほほが緩んでいたと伝えています。地元の熱狂ぶりが分かります。

⑥アムステルダム決勝を伝える記事(昭和3年8月10日付)

⑦ロサンゼルス決勝を伝える記事(昭和7年8月15日付)
鶴田選手が2連覇したロス大会の記事ですが、当時はオリンピック連覇のすごさが分かっていなかったのか、連覇については触れていません。

2019年06月30日
鶴田義行さん
先日、孫を鹿児島市の鴨池公園水泳プールに送迎。隣の駐車場に車を置いてプールに向かう途中、記念碑が目に留まった。「鶴田義行顕彰碑」とある。「誰なの」と碑文を読むと、1928年アムステルダムと1932年ロサンゼルスのオリンピックで、200メートル平泳ぎ2大会連続の金メダリストだった。北島康介より80年近く前に2連覇を達成した人だった。

こんなすごい選手なのに小さな記念碑だけなのか、銅像好きな鹿児島なら一緒に銅像でも建ててあげればと思いながら家に帰って調べてみた。
鶴田さんは1903年に現在の伊敷8丁目、河頭中から1キロ下流当たりの国道3号線沿いで生まれている。2つ違いの兄に甲突川に投げ込まれ溺れそうになったことが契機で水泳に真剣に取り組んだ。という話がある一方、泳ぎの達者な鶴田少年が、家の前の甲突川を下り桜島でUターンをして今戻ってきたとみんなにいうと、他の子がそれは信用できぬと言ったが、桜島大根を背負って帰ってきたいたので驚いたという逸話もあるそうだ。
銅像の話に戻すと実家跡の敷地内に2004年に碑石とともに建てられていた。国道3号線を川内方向に甲突川沿いに走っていると大田ベーカリーの看板・工場が目に入るが、その工場前の国道越しの対面に当たる。しかし近くに看板など案内するものが無いのでほとんど分からない。なぜ公共的な場所ではなくそこに建てられたかについては、〈県や市が鶴田氏を無視したので、すべては親戚、有志が実費で造ったもの。(銅像は鶴田氏の母校、伊敷小に置くつもりであったが、市が妨害)〉と記したブログがあった。この辺りの実情を示すものは出てこなかった。鴨池プールの石碑は2015年に建立されているが、実家跡の石碑の写真(略歴)と碑文を入れ替えただけのコピペ石碑だった。

鶴田氏は17歳ころ国有鉄道鹿児島機関区に就職し、その後。海軍佐世保海兵団に入隊、アムステルダムオリンピックに出場後、明治大学に入学、卒業後南満州鉄道に就職、ロサンゼルスオリンピックに出場。その後名古屋市役所の体育主事となるものの、海軍に応召、戦後に妻の出身の愛媛で愛媛新聞社に入社している。同時に愛媛県の水泳振興に寄与している。
NHK大河ドラマ「いだてん」は明日から第2部となるが、大東駿介が鶴田さん役を演じる。はたして鹿児島出身という紹介がされるかどうか。
日本人初のオリンピック金メダリストはアムステルダム大会・陸上三段跳びの織田幹雄さんだが、6日後に鶴田さんが金メダルをとっている。競技日程が違っていたら。戦後愛媛新聞に入らず南日本新聞に入っていたら。今年の大河ドラマは『カッパどん ~東京オリムピック噺(ばなし)~』となっていたかもと、焼酎を飲みながら書いている。
こんなすごい選手なのに小さな記念碑だけなのか、銅像好きな鹿児島なら一緒に銅像でも建ててあげればと思いながら家に帰って調べてみた。
鶴田さんは1903年に現在の伊敷8丁目、河頭中から1キロ下流当たりの国道3号線沿いで生まれている。2つ違いの兄に甲突川に投げ込まれ溺れそうになったことが契機で水泳に真剣に取り組んだ。という話がある一方、泳ぎの達者な鶴田少年が、家の前の甲突川を下り桜島でUターンをして今戻ってきたとみんなにいうと、他の子がそれは信用できぬと言ったが、桜島大根を背負って帰ってきたいたので驚いたという逸話もあるそうだ。
銅像の話に戻すと実家跡の敷地内に2004年に碑石とともに建てられていた。国道3号線を川内方向に甲突川沿いに走っていると大田ベーカリーの看板・工場が目に入るが、その工場前の国道越しの対面に当たる。しかし近くに看板など案内するものが無いのでほとんど分からない。なぜ公共的な場所ではなくそこに建てられたかについては、〈県や市が鶴田氏を無視したので、すべては親戚、有志が実費で造ったもの。(銅像は鶴田氏の母校、伊敷小に置くつもりであったが、市が妨害)〉と記したブログがあった。この辺りの実情を示すものは出てこなかった。鴨池プールの石碑は2015年に建立されているが、実家跡の石碑の写真(略歴)と碑文を入れ替えただけのコピペ石碑だった。

鶴田氏は17歳ころ国有鉄道鹿児島機関区に就職し、その後。海軍佐世保海兵団に入隊、アムステルダムオリンピックに出場後、明治大学に入学、卒業後南満州鉄道に就職、ロサンゼルスオリンピックに出場。その後名古屋市役所の体育主事となるものの、海軍に応召、戦後に妻の出身の愛媛で愛媛新聞社に入社している。同時に愛媛県の水泳振興に寄与している。
NHK大河ドラマ「いだてん」は明日から第2部となるが、大東駿介が鶴田さん役を演じる。はたして鹿児島出身という紹介がされるかどうか。
日本人初のオリンピック金メダリストはアムステルダム大会・陸上三段跳びの織田幹雄さんだが、6日後に鶴田さんが金メダルをとっている。競技日程が違っていたら。戦後愛媛新聞に入らず南日本新聞に入っていたら。今年の大河ドラマは『カッパどん ~東京オリムピック噺(ばなし)~』となっていたかもと、焼酎を飲みながら書いている。