2025年04月24日
校内放送が閉山や事故を伝えた時代

「○○炭鉱の子どもはすぐに家に帰りなさい」。高校の授業中、急に緊迫した声が校内放送のスピーカーから流れた。学区に筑豊炭田の地域の一部があり、炭鉱勤めの人の子や弟妹も通っていた。アナウンスは復唱され、教室内は「事故やろか閉山やろか」と一気にざわつき、先生も授業を中断し職員室に駆けていった。
石炭から石油へのエネルギー革命は、1960代後半に決着の時を迎えていた。黒いダイヤモンドと呼ばれた石炭を掘る炭鉱は、斜陽産業の代名詞へと変わった。その時代に私は高校生だった。
TBS系列で昨年秋、海底炭鉱の軍艦島(端島)を舞台にしたドラマが放映された。毎週ストーリーを追いながらも、当時の炭鉱のことを思い出していた。時代設定では、主人公が島から急に姿を消す頃が、私の高校時代と重なる。
同級生が住む炭住(炭鉱住宅)に遊びに行ったことがある。軍艦島では鉄筋コンクリート造りだったが、そこは古い木造の4軒長屋が活気なさげにずらっと並んでいた。
ドラマではほとんど触れられなかった閉山離職。炭鉱の閉鎖が続いていたので、離職者の新しい職場への斡旋も身近にあった。夕食時に父が「うちの職場にも炭鉱から4人来た。あいつら全く違う仕事をせんといかんから、やおいかん(大変)やろ」と話していた。筑豊炭田の急激な衰退はその後、製鉄所を中心に栄えていた北九州市を「鉄冷え」の街に変えた。
炭住跡の多くは、新興住宅地や公園に姿を変えたと聞く。実家近くの坂道の上から見えていた、雑草に覆われたボタ山も姿を消した。TVドラマが残像を見せてくれた。