2019年08月29日

ザビエルの黒い石膏像

ザビエルの黒い石膏像を鑑賞に県立図書館に。像は館長室のこじんまりとしたエントランス部分に置かれていた。普段は一般の人が目に触れない場所だ。


鑑賞依頼にすんなりOKがでたなと思ったら、私が電話で依頼した時、原口泉館長がそばで聞いていたらしく「写真もいいよ」とすんなり許可が下りたらしい。職員さんの話によると、原口館長と胸像のモデルになった鹿児島大学工学部の末永勝郎教授は親戚で、市電で柳田菖先生が末永氏に声をかけたエピソードもご存知だったそうだ。

石膏像には十字架を下げる紐がない。ブロンズ像の口元の方が、一層不敵さが感じられる。



旧館(現博物館)では閲覧室の書架の上に置かれいたが、新館では人目に触れないところに保管されている。再度、誰でも見られる場所に展示してほしいと思った。



  


2019年08月27日

ザビエル胸像と彫刻家・柳田菖

 「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」を調べているうちに奥に建てられている「ザビエル胸像」も気になってきた。ザビエル公園入口に鹿児島市が設置した「白坊主と呼ばれた聖師の案内板」には「石造りの建造物(滞鹿記念碑のこと)は、・・・・ザビエル渡来400年を記念して、・・・同時にザビエルの胸像も建てられました。胸像作者 柳田 昌(鹿児島市出身)」と記載されている。
[図①]案内板の記述



 ザビエル公園開園がザビエル渡来400年の1949年(昭和24年)8月15日なので、その日の前後の南日本新聞をマイクロフィルムで読んでみたが、胸像についての記事はなかった。「ザビエル胸像 柳田昌」と入力してネット検索したが、市の案内板以上のものはなく柳田氏の情報も全く手にできなかった。
 小平貞保教授の著書「鹿児島に来たザビエル」に胸像のことも書かれてないか読み直してみた。すると胸像の除幕式は昭和24年5月30日、制作者は柳田「菖」氏となっている。昌の字に草冠が付いている。
[図②]「鹿児島に来たザビエル」の該当ページ


 市の案内板の説明文と異なるため「ウラ」をとることに。1949年(昭和24年)5月30日前後の南日本新聞を調べてみた。この時期は、5月29日に長崎で始まり6月29日東京で終わるザビエル渡来400年の日本での記念式典が行われていた。ザビエルの故国スペインからの巡礼団75人が、ローマにあるザビエルの右腕と十字架を携えての来日だった。鹿児島には5月31日早朝に鹿児島駅に到着した。また5月31日には、2代目に当たるザビエル聖堂の献堂式が催されている(この教会は2012年に福岡県宗像市名残の宗像修道院の敷地内に移築された)。
 このためこの時期の新聞は、巡礼団来鹿、教会完成やザビエル関連の記事が毎日の様に掲載されているが、胸像の除幕式の記事は見当たらなかった。
 なお、巡礼団は当初歴史通り最初に鹿児島に海から上陸する予定だったが、錦江湾に置かれた戦時中の魚雷が完全に掃海できていなかったため、長崎から陸路で鹿児島にとルートが変更されたそうだ。
[図③]1949年5月30日前後の南日本新聞




 胸像の設置日を検証するのは不可能と思われた。柳田菖(昌ではない)と入力して検索してみた。十数件しかヒットしなかったが、その中に胸像と柳田菖氏にかんするすべてが判明する大ヒットがあった。それは福岡県にある総合プランニング・コンサルタント会社㈱よかネットの機関紙「よかネット」の2006年1月号 (No.79)と2013年1月号 (No.109)の2冊。よかネットのメンバーで鹿児島大学工学部の卒業生Y氏がNo.79には柳田先生の7回忌、No.109には13回忌と追悼集の発行のことなどを「近況」に綴っていた。
[図④]胸像写真が掲載された機関紙「よかネット」(No.109)


 二つの「近況」で分かったことは、柳田菖先生は本業は彫刻家で鹿児島大学建築学科の造型学の非常勤講師だった。サビエル像にはモデルがいて元機械学科の末永先生。「僕が死んだときには葬式の残った金で祇園で芸妓をあげて祝ってくれ」という粋な遺言を残し100歳で亡くなっているということだった。この文章で柳田先生の名前が市の案内板にある「昌」ではなく「菖」であるとはっきりした。しかし設置日のことは分からなかったし、「近況」に書いてあること以上のことを知りたいと思った。No.109の「近況」の最後に「柳田菖先生やザビエル像に興味のある方は、追悼集が数冊残っています。ご連絡いただければ、お送りさせて頂きます」と書かれてあったので、6年前の文章なので残部が無くなっているかなと思いながらもY氏にメールした。幸なことに残部があり、「無償よ残象美しく」の色紙を表紙写真にした追悼集が送られてきた。
[図⑤]「追悼・柳田菖先生」の追悼集と先生の写真



 追悼集はA4版で142頁。「先生の100年史」「新聞に掲載した随筆」「ザビエルにかかわる話」「追悼集への寄稿文」や写真集などで構成されている。追悼集を読んでいくうちに先生の波乱万丈の人生に驚くとともに、私のまったく存じ上げない先生と思っていたが私の知り合いの方とも関係があったことを知ってまた驚いた。これらのことは後程記すとして、まずザビエル胸像について。記載内容は主に追悼集からの引用。

【胸像の依頼】
 胸像づくりはザビエル渡来400年の記念事業の一つとして朝日新聞鹿児島支局長の発案。県と鹿児島市、民間が一体となってつくるザビエル聖師鹿児島上陸四百年記念会が中心になって建立の準備を始めた。文化人として知られた重成格知事(初代の民選知事)の理解もあり、制作には県費20万円の支援も受けたとか。制作者として柳田先生に依頼が舞い込んだのは、彼が戦前二科会で特待賞を受賞し二科会員になっており、朝日新聞が二科画集を発行していたことや、鹿児島の文人の推しによるものらしい。胸像の台座裏の下に、企畫 朝日新聞社の文字が彫られている。


【イメージは海賊】
 柳田先生のザビエル胸像は、鼻高く、彫が深い。たくましく、不敵な面構え。遠くを見る表情には孤独感が漂う。私たちが教科書で知るザビエルの肖像画(重要文化財)とは大きくかけ離れている。
 制作意欲に書きたてられた柳田先生は、長崎、山口にも出向いて調査し人物像のイメージを膨らませた。
 「残された肖像画を見て回ったが、すべて違う顔。自分なりのザビエル像を作るしかないと思った。ザビエルは聖人とされているが、荒波を越えて日本にやってきた冒険家のたくましさをもち、海賊の親分みたいな顔をしていたに違いない」と、制作時を振り返っている。

【二人のモデル】
 このイメージを基に探した結果、県庁で速記をしていた荒武祐一氏と、県立工業専門学校(現鹿児島大学工学部)の教員をしていた末永勝郎氏の二人をモデルにした。最初のモデルは荒武氏。彼の下宿先の表座敷に柳田夫妻が間借りしていた関係で知り合いだった。末永氏との出会いは市電の中だった。電車で「名前は何という。どこに勤めているんだ」と、ベレー帽の男がぶっきら棒に声を掛けてきた。声を掛けられた末永氏はまともに相手にせずそそくさと電車から降りた。ベレー帽の柳田先生はあきらめず、鹿児島女子師範(現鹿児島大学教育学部)の教師をしていた夫人を末永氏のもとに「派遣」し説得した。
[図⑥]当時の荒武、末永の両氏とザビエル像(上から)




【アトリエは県立図書館】
 胸像制作のアトリエは県立図書館(現県立博物館)の一室だった。当時の図書館長は児童文学者として著名な椋鳩十(久保田彦穂)氏だった。久保田館長と柳田先生は親しかった(この事は後程触れる)うえに、県費も支出されているので特別閲覧室を提供したのだろう。まず図書館のアメリカ読書室で仕事をしていた荒武氏をモデルに仕事を始めた。その後、末永氏もアトリエに通うことに。二人のモデルは勤務を持つ身なので、まず二人の塑像を作り二人が来れない時はその塑像を観ながら胸像作りを進めた。
 末永氏の記憶によると、アトリエには椋鳩十(児童文学者)、羽生純夫(鹿児島大学教育学部教官)、赤路友蔵(代議士)、栗川久雄(鶴丸高校校長)、北原三男、羽島さち(「みなみの手帖」主宰)、鮫島志芽太(南日本新聞専務)ら地元の文人、画家、新聞記者らが集いサロンのようだったと(( )内の肩書は私が分かる限りで記載。当時のものではないものも)。家庭科の先生だった柳田夫人が、実習で作った料理を持ち込み酒宴が催されることもあったという。
[図⑦]当時の県立図書館、現・博物館


【十字架がない】
 胸像制作中も一波乱が。「これじゃどこの馬の骨ともわからん。十字架をつけたほうがいい」。胸像の原型ができた時に信者からこんな批判が出た。しかし柳田先生は、ひとつも動じず「ザビエルに十字架は似合わない。このままでいいんだ」。バスク出の海賊の親分をイメージした柳田先生の回答は「何分の一かの船はどうしても目的に着かない時代に日本まではるばると来るとは、ザビエルは相当のしたたか者だ」と、ふるっていた。胸像に十字架は必要なかった。しかし信者側も譲らない。
 このトラブルを耳にした朝日新聞支局長が仲介の労を取り「ザビエル像には、十字架を下げる紐だけを刻んでもらい、下方は他の人が造る台座に隠れるようにすればよい」という提案を出し、これが通り、胸像には十字架は付いてない。
[図⑧]胸像には紐だけで十字架は台座に


【除幕式も一波乱】
 県費からの支援で制作された胸像は鹿児島市に寄贈され、造成中のザビエル公園に据え付けられることになった。除幕式の1949年5月30日の朝、「準備ができてないじゃないか。どういうことなんだ」と、柳田先生が勝目市長をしかりつける怒鳴り声が響いた。
 胸像のモデルの縁で式典に出席した末永氏は、柳田先生の激怒の理由をはっきり思い出せない。ただ除幕式にブロンズの鋳造が間に合わなかったため、石膏像を黒く塗って急場をしのいだことは聞いているそうだ。
 先にも書いたように、除幕式の翌日にはカトリックの国際巡礼団が来鹿する。巡礼団に記念事業の成果を一つでも多く見せたかったのか、市が除幕式を急いだ真相は分からない。
 これは追悼集に掲載された、西日本新聞の連載記事「ザビエル上陸450年・第2部」の1999年8月6日の記事による。当日を知る関係者から取材して、胸像の除幕式が「1949年5月30日」としているので、これで間違いないだろう。
 1999年5月21日に県立図書館から末永氏に「ザビエルの塑像が図書館にあるが、なぜ図書館にあるかご存じないか」との問い合わせの電話があった。県立図書館は現在の県立博物館から1979年(昭和54年)に鶴丸城跡の現在地に移転している。末永氏が6月に実物を見たところザビエル公園の胸像の原型と分かった。黒塗りにされたザビエルの石膏像だった。図書館の一室をアトリエにしていたので、除幕式の後に図書館に保管されていたのだろう。
 今も保管されているか図書館に聞いてみたら、館長室の近くに展示されているという返事だった。近く鑑賞に行くことにした。

【消えた胸像】
 除幕式の翌年朝鮮動乱(1950-1953年)が起き、金属の需要が高まっていた。「胸像が消えた。盗まれたんじゃないか」。末永氏が柳田先生と出会ったとき不安げに切り出したので、末永氏はその足で現場に行くと台座を残して胸像が消えていた。
 金属需要に目を付けた子供たちが、道端で拾った金物を地金業者に持ち込んで小遣い稼ぎ。これは先日Eテレで放映された映画「ひろしま」(ベルリン映画祭長編映画賞を受賞)の1シーンでも、戦災孤児たちが被災物の金属をはがす姿が流れていた。全国的に起きていたことなのだろう。鹿児島では、西郷隆盛の銅像の剣を切って売り払った男が逮捕される事件も起きたようだ。
 こうした「受難」から逃れるために市長室に一時期置かれていた。「金属類が不足していたため盗難が続出し、悲しいことに、公園内の柳田菖作のザビエル胸像も、一時は取り除いて市長室に置いたりした。世の中がおさまったので、再び厳重な取り付けをして、もとの通り原位置に安置した」(「鹿児島市秘話 勝目清回顧録」)。

 以上が「ザビエル胸像物語」の顛末である。柳田先生の波乱万丈な人生を伝える前に、柳田先生と私の共通の知人の件について記しておく。

【長田町に文化村】
 追悼集に掲載された、西日本新聞の連載記事「ザビエル上陸450年・第2部」を読んでいると、第3回に「長田町に文化村ができるといううわさが」という文章が目に留まった。40年近く前の記憶がフッとよみがえった。「自治研かごしま」(県地方自治研究所・発行)の「この人に聞く」という対談記事の企画を担当しており、レイアウト、写真、テープ起こしからB5―8頁の記事・見出しを作成していた。対談3回目の「この人」が羽生純夫氏(鹿大教官)だった。羽生氏の話の中に「文化村」に触れた部分があったことを思い出した。そこの「住人」については、羽生氏のほか椋鳩十、赤路友蔵両氏の名前はうっすら憶えていた。しかし柳田先生が「住人」だったことは記憶の底にも残ってなかった。この対談が掲載された「自治研かごしま」24号(1982年3月発行)を探して当該ページを開いてみた。1950年に土地を買った文化村について尋ねられた羽生氏は、「住人」について「赤路(友蔵)、久保田(椋鳩十)、柳田(菖)、村田(実)、伯父と僕」と答えている。
 ということは、当時私は羽生氏に「柳田さんのお名前のショウの字は漢字でどう書くか」を聞いて、ワープロの無い時代だから鉛筆で原稿用紙に「柳田(菖)」と書いたはずだがすっかり忘れていた。
 昭和初期に柳田先生は、東京で新進気鋭の美術家が集い、町をつくる豊島区の「アトリエ村」(後々池袋モンパルナスと称される)に住んでいたので、その類推で「文化村」と名付けたかもしれない。また戦後は、現在も高見馬場電停近くにある花店「空想部落」に、新生・日本を思う熱い若者たちが集まって毎晩議論していたという話を聞いたことがある。その若者たちはその後、いわゆる保守・革新に分かれるが政治家・大学教官・文化人などに育っており、そのような熱気が「文化村」にもあったのだろう。
[図⑨]「自治研かごしま」で「文化村」について答える羽生氏


【90歳過ぎても天文館通い】
 朝日新聞地方版の特集記事「天文館有情」の第27回(1989年5月27日付)で柳田先生をとりあげている。「明治31年生まれの91歳。天文館の酒飲みでは、おそらく最高齢だろう。客に老人は多い。が、せいぜい70歳代止まりだからだ。週に1回、天文館に遊ぶ。ベレー帽、帰りはいつも午前1時、2時」などと紹介されている。
 追悼集を読んでも、教え子たちの寄稿文に「天文館大学」の恩師などと必ず天文館のことに触れている。その中に「天文館では古い処では「鶴八」・・・などがお馴染みであった」「どう歩いたか分からぬまま、婆さん(失礼、当時の私にはそう見えたのです)がやっている小料理屋Tでガランツを肴に・・・」。そして追悼集の最後に編者が「先生の人生に深い関わりのあった人物」を記録するとして「六、「鶴八」のおばちゃん(本名不明)、江戸っ子で先生と気(話?)が合い、天文館の締めに、二階にあった店の、急な鉄砲階段をよく登って行った。帰りの下り階段は、あの歳でよく落ちなかったものだと今でも感心する。そこは大学の先生や新聞記者の溜り場的な所でもあり、談論風発?することもしばしばだった」と「鶴八」のおばちゃんが6番目に列挙されている。
 「鶴八」のおばちゃんは本名、高橋豊子さん。柳田先生より15歳年下。「鶴八」は今風に言うと昭和レトロな店。最後までカラオケも付けなかった。客が多い時は、常連が燗つけから肴の配膳まで。追悼集の編者が書いているように、掴み合いの談論風発も多かったが小さな体のおばちゃんの「喧嘩は外で」の一喝でほぼ納まっていた。常連の新聞記者も多く総理大臣になった細川護熙氏も朝日新聞の支局記者時代は良く通っていた。財布は持たずお付きの人が、後日支払いをしていたという逸話もある。総理就任時には女性週刊誌が「鶴八」のおばちゃんを取材に来ていた。私も学生時代から通い始めた口だ。子供の世話まで見てもらった。おばちゃんも柳田先生も天涯孤独の身だったことも、気が合った要因の一つかもしれない。私は20歳過ぎから通い始めているがその時鶴田先生は70歳前半。「鶴八」が閉店した1993年は私42歳、先生95歳。ベレー帽を被った高齢の客は何人かいたが、柳田先生はそのうちの一人だったのだろう。名前や職業を紹介し合うようなヤボな店ではなかったので、店でお会いしても知らないままで焼酎の酌などをしていたかもしれない。
[図⑩]「鶴八」のおばちゃんの死去を伝える新聞(1997年2月21日南日本夕刊)


【遺言も破天荒】
 柳田先生は晩年、知人や教え子に「自分が死んだときは、葬式では滝廉太郎の荒城の月を歌い、100万円を貯金しているので、納骨代を払った後、残った金は京都の祇園で舞子を上げて、精進落としに使ってくれ」との「遺言」を伝えていた。教え子たちは「遺言」通り、京都・東山の料亭で舞子の踊りを眺めながら柳田先生の人生の美学にしみじみと酔いしれた。
 柳田先生が亡くなったのは、奇しくもザビエル渡来450年に当たる1999年の1月6日。渡来450年を前に南日本(1993年)と西日本新聞(1994年)から取材を受け「幸い体だけは丈夫。上陸450年祭を、ぜひこの目で見たい」「半世紀が過ぎた今、キャリアを積んだ現在の技術で、ザビエル像にもう一度挑戦してみたい」と語っている。その思いは実現できなかったが、「ザビエル像を超えるザビエル像をそれぞれイメージしなさい」との宿題を私たちに残したのかもしれない。

【波乱の生涯】
 追悼集の「百年史」から抜粋する。
●1898年(明治31年)3月22日に北海道小樽市に誕生。
誕生から29歳までは詳細不明だが柳田先生の話していたことをまとめると次のように。
●小学校の時の成績が、甲・乙・丙・丁・戊の五段階評価の戊であった。
●放蕩の末、家を売り払い?(借金のカタ?)母親に「家賃の請求が来たがこれは何だ。」と聞かれた。そして、懺悔のために男子修道院に入った。
●修道院に耐え切れず出奔、行方不明に。下関で仏師をしているところを見つかり、新潟の姉の稼ぎ先に引き取られるが、そこも居辛くなり再び出奔。
●どの様な経緯か不明だが、福岡の寺(西林寺)で説教(説法)、面白い男がいるとの情報に、「筑紫高等女学校(当時)」理事長・水月文英氏が興味をもたれる。
●水月氏の縁で、筑紫高等女学校の体操教師をしていた川崎マツノ女史(明治35年2月25日生まれ)と知り合う。

 青年期までの人生について、89歳の柳田先生は朝日新聞の取材を受け次のような記事になっている。
 90歳を目前にした人とは思えないかくしやくぶり。この春、30年間勤めた鹿児島大学工学部建築学科(造型)の非常勤講師を辞めた。
母を置き去りに脱走
 柳田さんは〝退官〟にあたって、各方面の知人にあいさつ状を送った。『いま老残の菖にも若い日があったという。その若い日に母を置き去りにして、北海道からいきなり下関へ脱走し、次は博多に流れ着いた』
 これは冒頭の一節だが、母を置き去りにして…とは。
 「私は北海道・小樽の出身。21歳のとき、仏師職の父を亡くし、私が三代目を継いだのですが、職人を使うのは気苦労が多いし、遊びは面白いしで…。遊び?もちろん遊郭ですよ」
 「とうとう家まで売りとばしてしまった」と事もなげに言った。柳田さんは、ここでいたずらっぽくフフフと笑い、「遊郭に居続けて、ある朝帰ったら、母が〝家賃って、何だい〟と聞くんですね、家を売ったのを黙っていたもんだから、説明に困りましたよ」
-時の経過はこんな悲劇もエピソードにしてしまう。
 あいさつ状は続けて『父祖の業である仏師の職人に徹しようか、それとも芸者の箱持ちになろうかと思った大変なアホウ者。その箱持ちになる勇気もなくて、仏教済世軍の宗教運動に入った』
 多感な青春時代の求道生活にも熱を失ったころ、筑紫女学園の教師だったマツノさんと出会い、結婚。若妻に励まされて、柳田さんの人生は大きく〝軌道修正〟される。
 一方、故郷の北海道では、放蕩息子の逐電後「サーカスが来るたびに、親類の人たちは、菖が幕引き役をしてるんではないかと見に行ったというんですね。」柳田さんはますます愉快そうだ。
 妻が教師を続けて生活を支え、柳田さんは彫刻に専念した。「上京し、芝浦高等工芸、東京美術学校などに行きましたが、試験が嫌いなもんで、全部中退です」
 二科研究所に入り、昭和9年二科展初入選。何か当時の作品は残っていませんか―と聞いたら、見事なブロンズ像を見せてくれた。裏に『第26回工科美術展覧会・特待賞』と彫り込んである。昭和14年のことで、昭和18年には会員に推挙された。
  (連載記事「かごしま人生模様」1987年11月1日・抜粋)

1928年(昭和3年) 29歳
・筑紫高等女学校体操教師川崎マツノ女史と結婚(婚姻届提出)。
1931年(昭和6年) 33歳
・二科会に入会。
1936年(昭和11年) 38歳
・水月氏の計らいでマツノ夫人は東京の千代田女学園に転校、自身は彫塑の研鑽のため、揃って東京へ転居。
※この8年間は、先生が彫刻家として最も充実し、幸福だったのではないかと思われるが、細かい経歴は分からない。

 二科美術研究所の生徒だった柳田先生の先生は「画壇の仙人」熊谷守一氏だった。熊谷氏が亡くなった1997年(昭和52年)に書かれたと思われる次のメモがある。
 先日死んだ熊谷さんは、私の研究所の先生でした。石井伯亭、安井曾太郎、有島生馬、坂本繁二郎、山下新太郎、藤田継治、熊谷守一、正宗得三郎等々、先生たちは無給で、熊谷さんだけ月額五十円それだけあれば充分生活が出来と云ってたそうで。
 私はその時博多筑紫女学校に勤めていた女房の八十円程の月給から五十円を送らせて(研究所の月謝はたしか七円)そうしてのうのうと裸のモデルを見て、東京暮らしというわけでした。
 戦後まもなく、早くから東京を捨てて久留米の近く福島にいた坂本先生は、芸術院会員の推選をさらりと断った。その五・六年して東郷青児は一千万とか使って芸術院会員になったとう世評です。
 熊谷さんは六・七年前、日本でたった一つ年金の有る文化勲章を、私は何も国のためにした覚えがないといってさらりと断った。この制度は初め年金が三十万であったがと思って、南日紙の調査室に聞いて見ると、今、年額二百四十万終身ですと答があった。月二十万ですね竹の手製のパイプを使って、さらりと、断ったんです。戦災を受けなかった熊谷さんの住いは、私の本籍がまだ残っている豊島区長崎二丁目の近く六百米の所です、その頃も既に古びた平家でしたが、その家に住みつづけられたわけです。

1939年(昭和14年) 41歳
・第26回「二科美術展覧会」にて特待賞受賞!?
1943年(昭和18年) 45歳
・出展10回にして、ようやく二科会員に推挙さる。
1944年(昭和19年) 46歳
・戦争対策のため、二科会解散。
1945年(昭和20年) 47歳
・戦争の悪化に伴い、マツノ夫人の縁戚(村田?家)を頼り、鹿児島に疎開。
1946年(昭和21年) 48歳
・マツノ夫人鹿児島大学教育学部助教授に!その学校の疎開先吾平町の安田氏宅で、一人目のザビエルのモデル荒武祐一氏とめぐり合う。
・第一回南日本美術展開催。彫塑部門審査員となる。以後第30回まで審査員を勤める。
1948年(昭和23年) 50歳
・ザビエルのモデルとして、市電で末永先生を見初め、マツノ夫人を通じ交渉。
1949年(昭和24年) 51歳
・フランシスコ・ザビエル日本到着四百年記念像制作。
1950年(昭和25年) 52歳
・椋鳩十、赤路友蔵、羽生純夫氏の四人で長田町の土地購入、アトリエ(後の「天魚洞」)造りをすすめる。
※マツノ夫人の関東の大学への転勤が決まり、東京でも創作拠点を!とのおもいで、豊島区にある「アトリエ村」に引つ越しの準備を進めていた。
1951年(昭和26年) 53歳
・この年に東京へ引つ越しを予定していたが、突然マツノ夫人死去(享年49歳)戒名「釋 松月浄光信女」。
※東京行きを断念!
※「天魚工房」完成!
1957年(昭和32年) 59歳
・北海道小樽区花園町西二丁目一一番地から東京都豊島区長崎二丁目三〇番地の一ヘ転籍(理由不明)。
1960年(昭和35年) 61歳
・この頃、鹿児島大学工学部建築学科の野村孝文教授の推薦で、同科の非常勤講師(造形担当)となる。以後30年近く、89歳まで勤務。
1975年(昭和50年) 77歳
・第30回南日美展の審査員を最後に勇退?
1984年(昭和59年) 86歳
・オイレスエ業本社へ、自作「川崎 宗造翁」胸像を訪ねる。
1987年(昭和62年) 89歳
・鹿児島大学非常勤退任慰労会が林田ホテルにて行われる。
・大学の造形室にて、お別れ会

 柳田先生は非常勤講師を続けたいとの思いはあったが、90歳になる非常勤講師がいることに文部省がクレームをつけ、大学を去らざるを得なかった(1999年8月9日付・西日本新聞)。

1990年(平成2年) 92歳
・風呂より失火、天魚洞全焼・「無職柳田昌芳」の火災記事に激怒、「無職とはなんだ、死んでも芸術家だ!」と。
   この記事で、柳田先生の本名は「菖」ではなく「昌芳」だと知る。
・大明ヶ丘の市営住宅に入居
・以後1997年(平成9年)10月頃伊敷の植村病院に入院するまでの7年余り、月見も花見も出来なくなったけれど、台風が来ても安心だと市営住宅での生活を気に入って居られた。
1997年(平成9年) 99歳
・林田ホテルにて、白寿のお祝い!
1999年(平成11年) 1月6日 100歳
・逝去 戒名「柳月流水居士」(自称)
 夫人のお墓がある京都・浄土真宗本願寺派本願寺大谷本廟に納骨時、戒名「柳月流水居士」が自己流?のため受け付けられず「柳田 菖」として納骨。

 この年表を見てわかる通り柳田先生は北海道生まれ。活動の場も山口、東京、福岡と様々。鹿児島市に長く住まわれているとしても、市の案内板にある「胸像作者 柳田 昌(鹿児島市出身)」の「鹿児島市出身」はいかがなものか。歌手・吉田拓郎は長く東京で活動しているし、生まれは伊佐郡大口町(現・伊佐市)で小2まで鹿児島市の谷山で過ごしているが、出身は東京や鹿児島とは言われず「広島出身」で大方の人は納得している。柳田先生の場合は「北海道出身・鹿児島市の彫刻家」くらいが妥当だと思う。

【主な彫塑作品】
フランシスコ・ザビエルの胸像(ザビエル公園) 1949年
荒武祐一氏塑像(荒武氏蔵) 1949年
末永勝郎塑像(末永氏蔵) 1949年
篠原鳳作の句碑(山川町長崎鼻) 1955年
冨吉栄二のレリーフ(洞爺丸での遭難死去は1954年) 蒲生町?
  私が調べたところ、冨吉栄二レリーフは霧島市民会館の南東側の公園に現在設置されている。製作は1957年。
  下はグーグルマップの画像  

七高生久遠の像「燃えては尽きじの記念碑」 1959年
川崎宗造翁の胸像(オイレス工業株式会社藤沢事業場構内) 1966年
梶島二郎先生の胸像(鹿大工学部構内) 1969年
[図⑪]七高生久遠の像


【ザビエル公園の3つの碑の概要】
 これまでの調査で、ザビエル公園にある「ザビエル頌徳碑」「ザビエル滞麑記念碑」(実物は麑の下部分が児)「ザビエル胸像」の3点の碑の概要は、市の案内文と違って数の様に整理できる。
[図⑫]3点の碑の概要 








  


2019年08月21日

ザビエル滞麑記念碑の謎

 8月も下旬になったので「じぃじの夏休み自由研究・ザビエル記念碑」もそろそろまとめに入らないと提出期限に間に合わなくなる。

 鹿児島市の天文館の南西のはずれにザビエル公園がある。この公園は勝目清市長が「ザビエル上陸400年記念に何か残したいと考えた。ちょうど復興事業で市内各地に小公園を計画していたので、その一つをザビエル教会前に作って、記念公園とすることにした」(「鹿児島市秘話 勝目清回顧録」)ものだ。公園西側正面に手前から「ザビエル頌徳碑」「ザビエル滞麑記念碑」(実物は麑の下部分が児)「ザビエル胸像」の3点が並んでいる。
[図①]3点の記念碑


 今回、自由研究を始めたのは今春、大阪の校閲記者が来鹿したおりザビエル公園の「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」を見て「ザビエルじゃなくてザビエと書かれているのはなぜ」と疑問に思ったことから。記者は県観光連盟に尋ねてみたが「理由は不明」ということだった。
 謎解き大好きじぃじとしては、これは面白そうと始めたが調べれば調べるほど「謎」が次々に現れることになった。
[図②]「ザビエ」と刻まれた「滞鹿記念碑」


【ザビエル頌徳碑】
 碑文には「フランシスコ・ザビエルが1549年8月15日に鹿児島に上陸して400年の年を迎えるにあたり記念公園を設けザビエルの崇高偉大なる精神を永久にたたえる」ということが刻まれている。最後に設置年月日が「昭和24年8月15日」とある。
[図③]「ザビエル頌徳碑」


 3点の記念碑のうち設置年月日が刻まれているのはこの「頌徳碑」だけ。公園が開園したのも、新聞記事にあるとおり「昭和24年8月15日」で間違いない。このため後世の人たち、特に鹿児島市役所の観光関係者は、公園を含め3点の記念碑すべてが「昭和24年8月15日」に設置されたと思い込んでいる節がある。現在、公園入口に鹿児島市が設置した「白坊主と呼ばれた聖師の案内板」には「石造りの建造物(滞鹿記念碑のこと)は、・・・・ザビエル渡来400年を記念して、・・・同時にザビエルの胸像も建てられました」と記載されている。
[図④]「昭和24年8月15日発行の南日本新聞」


[図⑤]「案内板」



【ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑】
 「ザビエル」がなぜ「ザビエ」なのか。その前に、この石造りの「記念碑」はどうやって作られたかということである。詳しくは、カトリック神父で純心女子短期大学の小平貞保教授の著書「鹿児島に来たザビエル」(1998年発行)に書かれている。
[図⑥]「鹿児島に来たザビエル」


 明治時代紆余曲折があってカトリックの宣教が自由になり、鹿児島では1890年から日本人の神父による布教活動が始まった。最初の教会は加治屋町の「猫糞教会」であった。「猫糞教会」は小平教授の「鹿児島に来たザビエル」に表記されたままを書いた。
 「猫の薬師小路(ねこんくそしゅつ)」。甲突川河畔の「大久保利通生い立ちの地」から、北東の方角に中央高校を突き抜け西日本シティ銀行のある谷山線の電車通りまでの通りが、江戸時代「猫の薬師小路(ねこんくそしゅつ)」と呼ばれていた。犬猫の医師(薬師)が多く住んでいたからだろうと言われている。シティ銀行横には「猫の薬師小路」の小さな石碑が建てられている。「猫糞教会」は「猫の薬師教会」だったかもしれない。
[図⑦]「猫の薬師小路の地図と石碑」


 話を元に戻す。教会は1891年に山下町に移転。1896年にラゲ神父がこの教会に赴任してきた。1899年にザビエル渡来350周年事業を準備していたが、台風に襲われ周辺家屋1000戸以上倒壊、教会も破壊された。頑丈な教会建設をラゲ神父は痛感した。
 9年後の1908年(明治41年)5月に、ラゲ神父によって石造りの初代聖堂が造られた。しかしこの聖堂は、1945年4月8日の空襲で内部は焼失、外壁だけが残された。外壁の一部の聖堂の玄関と、壁に使われていた石材を組み合わせて「記念碑」ができている。
[図⑧]「聖堂と記念碑の関係」


 ではいつこの「記念碑」がザビエル公園内に設置されたのか。「鹿児島に来たザビエル」には1961年(昭和36年)と記載されていたが、市役所が昭和24年説を主張しているため「ウラ」をとる資料を探し、鹿児島市史と南日本新聞を見つけた。
 鹿児島市発行の鹿児島市史第3巻(昭和46年2月発行)の第9部「年表」九六〇頁下段右から7行目に、(昭和36年)12月28日ザビエル記念碑完成とあった。
[図⑨]「鹿児島市史第3巻の年表」


 一方、1961年(昭和36年)12月28日発行の南日本新聞にも、ザビエル記念碑が「このほど」完成したことを伝える記事が掲載されている。
[図⑩]「1961年12月28日発行の南日本新聞」


 「滞鹿記念碑」の設置年については1949年(昭和24年)と間違われることが多い。「鹿児島に来たザビエル」でも、1995年(平成7年)4月13日発行の南日本新聞の記事について、「この記事には一つの間違いがある。この記念碑がザビエル公園に移設されたのは、昭和24年、つまりザビエル祭のときでなく、昭和36年である」と、上述したように触れている。
[図⑪]「1995年4月13日発行の南日本新聞」


 面白いことに同じ年の1995年1月19日発行の南日本新聞には、初代聖堂について「1949年に新築された新聖堂と並んで建っていたが、61年に撤去。・・・記念碑だけが・・・残っている」と正確に書かれている。4月の記事は市観光課に取材しているので、同課が間違った情報を伝え記者と校閲が「ウラ」を取らなかったミスと思われる。
[図⑫]「1995年1月19日発行の南日本新聞」


 しかし「ザビエル400年祭の1949年設置説」は、世間にも広がっているようだ。日銀鹿児島支店が2013年に開設70周年を記念して「鹿児島支店の歴史」のページをホームページ上に開設している。「開設50年代の様子」のうち「フランシスコ=ザビエル、鹿児島上陸450年記念行事開催」の中でも「ザビエル400年祭の1949年設置説」になっている。
 さらにこのページでは、「ザビエ」問題については「当時造った人が「ル」を入れ忘れてしまったとのことです」と大胆に言い切っている。
[図⑬]「日銀鹿児島支店の歴史・開設50年代の様子」


 前にもふれたように、「ザビエ」の文字は1908年5月の教会建設当時に彫られたもの。では、誰が「フランシスコ、ザビエ聖師滞麑記念」(右側)「天文十八年西暦千五百四十九年八月十五日着」(左側)の文字を書いたのか。うっかり忘れるような人なのか。この教会はラゲ神父が建設したもので、神父は文語体による日本語訳聖書を作成し、仏和辞典を編纂したことで高校教科書などでも取り上げられている。この聖書や仏和辞典の完成に協力したのは、第七高等学校(現・鹿児島大学)で数学を教えていた小野藤太教授。ちなみに、仏和辞典の売上金が教会建設費に充てられた。
 
 ラゲ神父と小野教授の関係については、井上ひさし著「自家製 文章読本」の中でも触れられるほど有名だ。小野教授は七高に赴任する前は中学で習字の先生もしていた。ラゲ神父と翻訳で共同研究し書道の先生でもある小野教授が「入れ忘れる」ということはまず考えられない。
[図⑭]「井上ひさし著「自家製 文章読本」」


 また横道にそれるが、小野教授についても触れておく。七高の工科を1920年(大正9年)に卒業した浅川勇吉氏(日本大学工学部名誉教授)が「昭和52年度東京七高会会報」に小野教授について「七高開設以来数学担当で在任中に逝去された小野藤太先生にあざなえる関係である。小野先生は熱烈なる指導精神を内に蔵し外には研究に挺せられ内外に篤き信望を寄せられたと聞くが、自分たちが入学する一年前に病魔に襲われ不惑の齢を迎えることなく惜まれて物故された。その先生にまつわる一佳話である。先生は村上先生と同じく独学にて高等教員資格を得られ七高に迎えられた。若い時代には奇しくも仙台で勉強された。自分は先輩から先生の高潔なるご人格と独特なる指導精神を誇らしげに追想するのを聞いた話の一節に、先生は苦学して勉強された時代には中学で習字の先生をしていた。そのとき乞われるがま々に東北学院礼拝堂の塔に「天主堂」と書いたことがある、という一齣があった。自分は大学を出て東北大学金属材料研究所に奉職することになった。先ず小野先生の文字を拝見することが念願であった。東北学院は繁華街となった東二番丁にあった。礼拝堂の塔には石に彫刻された天主堂の文字は立派に眺められた。雄渾というか独特な風格ある文字に接し、ほのかにそのかみを偲ぶのであった」と寄稿している。小野教授が独学で教員資格を得られたことや、ザビエル教会以前にも東北の教会に文字を残されていたことが記されている。
[図⑮]「浅川名誉教授の寄稿文」


 ではなぜ「ザビエ」になっているのか。前述した1995年1月19日発行の南日本新聞の中で、ザビエル教会の永山幸弘司祭は「明治時代はラテン語によるフランシスコ・ザベリオが一般的。ラゲ神父がフランスの宣教会出身だったためフランス語読みのフランソア・ザビエと混合したのかも」と推測している。
 ザビエル公園を管理している市公園緑地課に聞くと、永山司祭の考えを踏襲してか「詳細は不明だが、ラテン語読みのフランシスコ・ザベリオとフランス語読みのフランソア・ザビエが混同しているのではないか」と答えてくれた。
 「鹿児島に来たザビエル」の著書の中では、「ザビエル聖堂を建立したのは、パリ外国宣教会所属のフランス語系ベルギー人のラゲ神父である。従って、ザビエル公園の記念碑に残っている「フランシスコ.ザビエ」の「ザビエ」はフランス語の名残りと言えよう。「フランシスコ」もフランス語で記すとすれば「フランソア」とすべきであろう。「フランシスコ」は定着していると考えられたのだろうか」と小平教授は解説している。

 ということで、記念碑に「ザビエ」と書かれているのは、フランス語系ベルギー人のラゲ神父のフランス語読みの影響のようだ。神父と親交のあった小野教授が書いたからこそ「正確」に「ザビエ」になった。もし、この仕事だけで関係した鹿児島人であれば「ラゲ神父どんは発音が悪(わ)りで、ザビエち聞こえたどん、ザビエルち書(け)とけばよかが(鹿児島弁はいいかげんです)」ということで「間違」って「ザビエル」となっていたかもしれない。

 今でこそ教会内外でザビエル表記が定着しているが、ザビエルの表記については様々なものがある。2017年6月6日の朝日新聞には次のような記事がある。
 キリシタン史に詳しい元桐朋学園大学短期大学部教授の岸野久さん(74)によると、ザビエルはスペイン語の発音で「ハビエル」。ザビエルの出身地、バスク地方では「シャヴィエル」になる。ミサの正式な言語だったラテン語では「ザベリヨ」で、「ザビエル」は英語読みに由来するという。
 宣教師が来日した16世紀以降、国内でもさまざまな呼び方があったようだ。歴史学者の故吉田小五郎は、文献をめくるうちに、登場する宣教師の名前がバラバラなことに気づいて驚いた。しびえる、ジヤヒエル、娑毘惠婁……。確認しただけでも読み方は60以上に及んだ。言語によってつづりが違い、仮名で書き残したため表記がさらに増えたのだろうと指摘する。
 歴史の教科書でも呼び名は分かれる。東京書籍は中学の教科書では「ザビエル」だが、高校では「シャヴィエル」。担当者は「現地の読み方に合わせるのが学会の潮流」と説明する。中学の教科書では一般的な「ザビエル」を採用しているが、今後表記を変えるか、併記する可能性もあるという。

 この「記念碑」も「ザビエ」でなければ、「ギヨテとは俺の事かとゲーテ言い」のように、当時はそのような表記だったんだとすんなり納得してしまうが、たまたまフランス語表記だったため、「ル」を入れ忘れてしまったなどとの都市伝説が生まれたのかもしれない。
 
 以上で「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」の「ザビエ」問題は決着した。しかし、この「記念碑」を調べているうちに、「記念碑」の後ろに立つ「ザビエル胸像」にかかわる新たな「謎」と「とんでもない人物」の発見につながっていく。



  


2019年08月09日

渋野日向子選手

初の海外試合の女子メジャー「全英AIG女子オープン」で優勝した渋野日向子選手。スマイル・シンデレラが笑利。