2019年08月21日
ザビエル滞麑記念碑の謎
8月も下旬になったので「じぃじの夏休み自由研究・ザビエル記念碑」もそろそろまとめに入らないと提出期限に間に合わなくなる。
鹿児島市の天文館の南西のはずれにザビエル公園がある。この公園は勝目清市長が「ザビエル上陸400年記念に何か残したいと考えた。ちょうど復興事業で市内各地に小公園を計画していたので、その一つをザビエル教会前に作って、記念公園とすることにした」(「鹿児島市秘話 勝目清回顧録」)ものだ。公園西側正面に手前から「ザビエル頌徳碑」「ザビエル滞麑記念碑」(実物は麑の下部分が児)「ザビエル胸像」の3点が並んでいる。
[図①]3点の記念碑
今回、自由研究を始めたのは今春、大阪の校閲記者が来鹿したおりザビエル公園の「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」を見て「ザビエルじゃなくてザビエと書かれているのはなぜ」と疑問に思ったことから。記者は県観光連盟に尋ねてみたが「理由は不明」ということだった。
謎解き大好きじぃじとしては、これは面白そうと始めたが調べれば調べるほど「謎」が次々に現れることになった。
[図②]「ザビエ」と刻まれた「滞鹿記念碑」
【ザビエル頌徳碑】
碑文には「フランシスコ・ザビエルが1549年8月15日に鹿児島に上陸して400年の年を迎えるにあたり記念公園を設けザビエルの崇高偉大なる精神を永久にたたえる」ということが刻まれている。最後に設置年月日が「昭和24年8月15日」とある。
[図③]「ザビエル頌徳碑」
3点の記念碑のうち設置年月日が刻まれているのはこの「頌徳碑」だけ。公園が開園したのも、新聞記事にあるとおり「昭和24年8月15日」で間違いない。このため後世の人たち、特に鹿児島市役所の観光関係者は、公園を含め3点の記念碑すべてが「昭和24年8月15日」に設置されたと思い込んでいる節がある。現在、公園入口に鹿児島市が設置した「白坊主と呼ばれた聖師の案内板」には「石造りの建造物(滞鹿記念碑のこと)は、・・・・ザビエル渡来400年を記念して、・・・同時にザビエルの胸像も建てられました」と記載されている。
[図④]「昭和24年8月15日発行の南日本新聞」
[図⑤]「案内板」
【ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑】
「ザビエル」がなぜ「ザビエ」なのか。その前に、この石造りの「記念碑」はどうやって作られたかということである。詳しくは、カトリック神父で純心女子短期大学の小平貞保教授の著書「鹿児島に来たザビエル」(1998年発行)に書かれている。
[図⑥]「鹿児島に来たザビエル」
明治時代紆余曲折があってカトリックの宣教が自由になり、鹿児島では1890年から日本人の神父による布教活動が始まった。最初の教会は加治屋町の「猫糞教会」であった。「猫糞教会」は小平教授の「鹿児島に来たザビエル」に表記されたままを書いた。
「猫の薬師小路(ねこんくそしゅつ)」。甲突川河畔の「大久保利通生い立ちの地」から、北東の方角に中央高校を突き抜け西日本シティ銀行のある谷山線の電車通りまでの通りが、江戸時代「猫の薬師小路(ねこんくそしゅつ)」と呼ばれていた。犬猫の医師(薬師)が多く住んでいたからだろうと言われている。シティ銀行横には「猫の薬師小路」の小さな石碑が建てられている。「猫糞教会」は「猫の薬師教会」だったかもしれない。
[図⑦]「猫の薬師小路の地図と石碑」
話を元に戻す。教会は1891年に山下町に移転。1896年にラゲ神父がこの教会に赴任してきた。1899年にザビエル渡来350周年事業を準備していたが、台風に襲われ周辺家屋1000戸以上倒壊、教会も破壊された。頑丈な教会建設をラゲ神父は痛感した。
9年後の1908年(明治41年)5月に、ラゲ神父によって石造りの初代聖堂が造られた。しかしこの聖堂は、1945年4月8日の空襲で内部は焼失、外壁だけが残された。外壁の一部の聖堂の玄関と、壁に使われていた石材を組み合わせて「記念碑」ができている。
[図⑧]「聖堂と記念碑の関係」
ではいつこの「記念碑」がザビエル公園内に設置されたのか。「鹿児島に来たザビエル」には1961年(昭和36年)と記載されていたが、市役所が昭和24年説を主張しているため「ウラ」をとる資料を探し、鹿児島市史と南日本新聞を見つけた。
鹿児島市発行の鹿児島市史第3巻(昭和46年2月発行)の第9部「年表」九六〇頁下段右から7行目に、(昭和36年)12月28日ザビエル記念碑完成とあった。
[図⑨]「鹿児島市史第3巻の年表」
一方、1961年(昭和36年)12月28日発行の南日本新聞にも、ザビエル記念碑が「このほど」完成したことを伝える記事が掲載されている。
[図⑩]「1961年12月28日発行の南日本新聞」
「滞鹿記念碑」の設置年については1949年(昭和24年)と間違われることが多い。「鹿児島に来たザビエル」でも、1995年(平成7年)4月13日発行の南日本新聞の記事について、「この記事には一つの間違いがある。この記念碑がザビエル公園に移設されたのは、昭和24年、つまりザビエル祭のときでなく、昭和36年である」と、上述したように触れている。
[図⑪]「1995年4月13日発行の南日本新聞」
面白いことに同じ年の1995年1月19日発行の南日本新聞には、初代聖堂について「1949年に新築された新聖堂と並んで建っていたが、61年に撤去。・・・記念碑だけが・・・残っている」と正確に書かれている。4月の記事は市観光課に取材しているので、同課が間違った情報を伝え記者と校閲が「ウラ」を取らなかったミスと思われる。
[図⑫]「1995年1月19日発行の南日本新聞」
しかし「ザビエル400年祭の1949年設置説」は、世間にも広がっているようだ。日銀鹿児島支店が2013年に開設70周年を記念して「鹿児島支店の歴史」のページをホームページ上に開設している。「開設50年代の様子」のうち「フランシスコ=ザビエル、鹿児島上陸450年記念行事開催」の中でも「ザビエル400年祭の1949年設置説」になっている。
さらにこのページでは、「ザビエ」問題については「当時造った人が「ル」を入れ忘れてしまったとのことです」と大胆に言い切っている。
[図⑬]「日銀鹿児島支店の歴史・開設50年代の様子」
前にもふれたように、「ザビエ」の文字は1908年5月の教会建設当時に彫られたもの。では、誰が「フランシスコ、ザビエ聖師滞麑記念」(右側)「天文十八年西暦千五百四十九年八月十五日着」(左側)の文字を書いたのか。うっかり忘れるような人なのか。この教会はラゲ神父が建設したもので、神父は文語体による日本語訳聖書を作成し、仏和辞典を編纂したことで高校教科書などでも取り上げられている。この聖書や仏和辞典の完成に協力したのは、第七高等学校(現・鹿児島大学)で数学を教えていた小野藤太教授。ちなみに、仏和辞典の売上金が教会建設費に充てられた。
ラゲ神父と小野教授の関係については、井上ひさし著「自家製 文章読本」の中でも触れられるほど有名だ。小野教授は七高に赴任する前は中学で習字の先生もしていた。ラゲ神父と翻訳で共同研究し書道の先生でもある小野教授が「入れ忘れる」ということはまず考えられない。
[図⑭]「井上ひさし著「自家製 文章読本」」
また横道にそれるが、小野教授についても触れておく。七高の工科を1920年(大正9年)に卒業した浅川勇吉氏(日本大学工学部名誉教授)が「昭和52年度東京七高会会報」に小野教授について「七高開設以来数学担当で在任中に逝去された小野藤太先生にあざなえる関係である。小野先生は熱烈なる指導精神を内に蔵し外には研究に挺せられ内外に篤き信望を寄せられたと聞くが、自分たちが入学する一年前に病魔に襲われ不惑の齢を迎えることなく惜まれて物故された。その先生にまつわる一佳話である。先生は村上先生と同じく独学にて高等教員資格を得られ七高に迎えられた。若い時代には奇しくも仙台で勉強された。自分は先輩から先生の高潔なるご人格と独特なる指導精神を誇らしげに追想するのを聞いた話の一節に、先生は苦学して勉強された時代には中学で習字の先生をしていた。そのとき乞われるがま々に東北学院礼拝堂の塔に「天主堂」と書いたことがある、という一齣があった。自分は大学を出て東北大学金属材料研究所に奉職することになった。先ず小野先生の文字を拝見することが念願であった。東北学院は繁華街となった東二番丁にあった。礼拝堂の塔には石に彫刻された天主堂の文字は立派に眺められた。雄渾というか独特な風格ある文字に接し、ほのかにそのかみを偲ぶのであった」と寄稿している。小野教授が独学で教員資格を得られたことや、ザビエル教会以前にも東北の教会に文字を残されていたことが記されている。
[図⑮]「浅川名誉教授の寄稿文」
ではなぜ「ザビエ」になっているのか。前述した1995年1月19日発行の南日本新聞の中で、ザビエル教会の永山幸弘司祭は「明治時代はラテン語によるフランシスコ・ザベリオが一般的。ラゲ神父がフランスの宣教会出身だったためフランス語読みのフランソア・ザビエと混合したのかも」と推測している。
ザビエル公園を管理している市公園緑地課に聞くと、永山司祭の考えを踏襲してか「詳細は不明だが、ラテン語読みのフランシスコ・ザベリオとフランス語読みのフランソア・ザビエが混同しているのではないか」と答えてくれた。
「鹿児島に来たザビエル」の著書の中では、「ザビエル聖堂を建立したのは、パリ外国宣教会所属のフランス語系ベルギー人のラゲ神父である。従って、ザビエル公園の記念碑に残っている「フランシスコ.ザビエ」の「ザビエ」はフランス語の名残りと言えよう。「フランシスコ」もフランス語で記すとすれば「フランソア」とすべきであろう。「フランシスコ」は定着していると考えられたのだろうか」と小平教授は解説している。
ということで、記念碑に「ザビエ」と書かれているのは、フランス語系ベルギー人のラゲ神父のフランス語読みの影響のようだ。神父と親交のあった小野教授が書いたからこそ「正確」に「ザビエ」になった。もし、この仕事だけで関係した鹿児島人であれば「ラゲ神父どんは発音が悪(わ)りで、ザビエち聞こえたどん、ザビエルち書(け)とけばよかが(鹿児島弁はいいかげんです)」ということで「間違」って「ザビエル」となっていたかもしれない。
今でこそ教会内外でザビエル表記が定着しているが、ザビエルの表記については様々なものがある。2017年6月6日の朝日新聞には次のような記事がある。
キリシタン史に詳しい元桐朋学園大学短期大学部教授の岸野久さん(74)によると、ザビエルはスペイン語の発音で「ハビエル」。ザビエルの出身地、バスク地方では「シャヴィエル」になる。ミサの正式な言語だったラテン語では「ザベリヨ」で、「ザビエル」は英語読みに由来するという。
宣教師が来日した16世紀以降、国内でもさまざまな呼び方があったようだ。歴史学者の故吉田小五郎は、文献をめくるうちに、登場する宣教師の名前がバラバラなことに気づいて驚いた。しびえる、ジヤヒエル、娑毘惠婁……。確認しただけでも読み方は60以上に及んだ。言語によってつづりが違い、仮名で書き残したため表記がさらに増えたのだろうと指摘する。
歴史の教科書でも呼び名は分かれる。東京書籍は中学の教科書では「ザビエル」だが、高校では「シャヴィエル」。担当者は「現地の読み方に合わせるのが学会の潮流」と説明する。中学の教科書では一般的な「ザビエル」を採用しているが、今後表記を変えるか、併記する可能性もあるという。
この「記念碑」も「ザビエ」でなければ、「ギヨテとは俺の事かとゲーテ言い」のように、当時はそのような表記だったんだとすんなり納得してしまうが、たまたまフランス語表記だったため、「ル」を入れ忘れてしまったなどとの都市伝説が生まれたのかもしれない。
以上で「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」の「ザビエ」問題は決着した。しかし、この「記念碑」を調べているうちに、「記念碑」の後ろに立つ「ザビエル胸像」にかかわる新たな「謎」と「とんでもない人物」の発見につながっていく。
鹿児島市の天文館の南西のはずれにザビエル公園がある。この公園は勝目清市長が「ザビエル上陸400年記念に何か残したいと考えた。ちょうど復興事業で市内各地に小公園を計画していたので、その一つをザビエル教会前に作って、記念公園とすることにした」(「鹿児島市秘話 勝目清回顧録」)ものだ。公園西側正面に手前から「ザビエル頌徳碑」「ザビエル滞麑記念碑」(実物は麑の下部分が児)「ザビエル胸像」の3点が並んでいる。
[図①]3点の記念碑
今回、自由研究を始めたのは今春、大阪の校閲記者が来鹿したおりザビエル公園の「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」を見て「ザビエルじゃなくてザビエと書かれているのはなぜ」と疑問に思ったことから。記者は県観光連盟に尋ねてみたが「理由は不明」ということだった。
謎解き大好きじぃじとしては、これは面白そうと始めたが調べれば調べるほど「謎」が次々に現れることになった。
[図②]「ザビエ」と刻まれた「滞鹿記念碑」
【ザビエル頌徳碑】
碑文には「フランシスコ・ザビエルが1549年8月15日に鹿児島に上陸して400年の年を迎えるにあたり記念公園を設けザビエルの崇高偉大なる精神を永久にたたえる」ということが刻まれている。最後に設置年月日が「昭和24年8月15日」とある。
[図③]「ザビエル頌徳碑」
3点の記念碑のうち設置年月日が刻まれているのはこの「頌徳碑」だけ。公園が開園したのも、新聞記事にあるとおり「昭和24年8月15日」で間違いない。このため後世の人たち、特に鹿児島市役所の観光関係者は、公園を含め3点の記念碑すべてが「昭和24年8月15日」に設置されたと思い込んでいる節がある。現在、公園入口に鹿児島市が設置した「白坊主と呼ばれた聖師の案内板」には「石造りの建造物(滞鹿記念碑のこと)は、・・・・ザビエル渡来400年を記念して、・・・同時にザビエルの胸像も建てられました」と記載されている。
[図④]「昭和24年8月15日発行の南日本新聞」
[図⑤]「案内板」
【ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑】
「ザビエル」がなぜ「ザビエ」なのか。その前に、この石造りの「記念碑」はどうやって作られたかということである。詳しくは、カトリック神父で純心女子短期大学の小平貞保教授の著書「鹿児島に来たザビエル」(1998年発行)に書かれている。
[図⑥]「鹿児島に来たザビエル」
明治時代紆余曲折があってカトリックの宣教が自由になり、鹿児島では1890年から日本人の神父による布教活動が始まった。最初の教会は加治屋町の「猫糞教会」であった。「猫糞教会」は小平教授の「鹿児島に来たザビエル」に表記されたままを書いた。
「猫の薬師小路(ねこんくそしゅつ)」。甲突川河畔の「大久保利通生い立ちの地」から、北東の方角に中央高校を突き抜け西日本シティ銀行のある谷山線の電車通りまでの通りが、江戸時代「猫の薬師小路(ねこんくそしゅつ)」と呼ばれていた。犬猫の医師(薬師)が多く住んでいたからだろうと言われている。シティ銀行横には「猫の薬師小路」の小さな石碑が建てられている。「猫糞教会」は「猫の薬師教会」だったかもしれない。
[図⑦]「猫の薬師小路の地図と石碑」
話を元に戻す。教会は1891年に山下町に移転。1896年にラゲ神父がこの教会に赴任してきた。1899年にザビエル渡来350周年事業を準備していたが、台風に襲われ周辺家屋1000戸以上倒壊、教会も破壊された。頑丈な教会建設をラゲ神父は痛感した。
9年後の1908年(明治41年)5月に、ラゲ神父によって石造りの初代聖堂が造られた。しかしこの聖堂は、1945年4月8日の空襲で内部は焼失、外壁だけが残された。外壁の一部の聖堂の玄関と、壁に使われていた石材を組み合わせて「記念碑」ができている。
[図⑧]「聖堂と記念碑の関係」
ではいつこの「記念碑」がザビエル公園内に設置されたのか。「鹿児島に来たザビエル」には1961年(昭和36年)と記載されていたが、市役所が昭和24年説を主張しているため「ウラ」をとる資料を探し、鹿児島市史と南日本新聞を見つけた。
鹿児島市発行の鹿児島市史第3巻(昭和46年2月発行)の第9部「年表」九六〇頁下段右から7行目に、(昭和36年)12月28日ザビエル記念碑完成とあった。
[図⑨]「鹿児島市史第3巻の年表」
一方、1961年(昭和36年)12月28日発行の南日本新聞にも、ザビエル記念碑が「このほど」完成したことを伝える記事が掲載されている。
[図⑩]「1961年12月28日発行の南日本新聞」
「滞鹿記念碑」の設置年については1949年(昭和24年)と間違われることが多い。「鹿児島に来たザビエル」でも、1995年(平成7年)4月13日発行の南日本新聞の記事について、「この記事には一つの間違いがある。この記念碑がザビエル公園に移設されたのは、昭和24年、つまりザビエル祭のときでなく、昭和36年である」と、上述したように触れている。
[図⑪]「1995年4月13日発行の南日本新聞」
面白いことに同じ年の1995年1月19日発行の南日本新聞には、初代聖堂について「1949年に新築された新聖堂と並んで建っていたが、61年に撤去。・・・記念碑だけが・・・残っている」と正確に書かれている。4月の記事は市観光課に取材しているので、同課が間違った情報を伝え記者と校閲が「ウラ」を取らなかったミスと思われる。
[図⑫]「1995年1月19日発行の南日本新聞」
しかし「ザビエル400年祭の1949年設置説」は、世間にも広がっているようだ。日銀鹿児島支店が2013年に開設70周年を記念して「鹿児島支店の歴史」のページをホームページ上に開設している。「開設50年代の様子」のうち「フランシスコ=ザビエル、鹿児島上陸450年記念行事開催」の中でも「ザビエル400年祭の1949年設置説」になっている。
さらにこのページでは、「ザビエ」問題については「当時造った人が「ル」を入れ忘れてしまったとのことです」と大胆に言い切っている。
[図⑬]「日銀鹿児島支店の歴史・開設50年代の様子」
前にもふれたように、「ザビエ」の文字は1908年5月の教会建設当時に彫られたもの。では、誰が「フランシスコ、ザビエ聖師滞麑記念」(右側)「天文十八年西暦千五百四十九年八月十五日着」(左側)の文字を書いたのか。うっかり忘れるような人なのか。この教会はラゲ神父が建設したもので、神父は文語体による日本語訳聖書を作成し、仏和辞典を編纂したことで高校教科書などでも取り上げられている。この聖書や仏和辞典の完成に協力したのは、第七高等学校(現・鹿児島大学)で数学を教えていた小野藤太教授。ちなみに、仏和辞典の売上金が教会建設費に充てられた。
ラゲ神父と小野教授の関係については、井上ひさし著「自家製 文章読本」の中でも触れられるほど有名だ。小野教授は七高に赴任する前は中学で習字の先生もしていた。ラゲ神父と翻訳で共同研究し書道の先生でもある小野教授が「入れ忘れる」ということはまず考えられない。
[図⑭]「井上ひさし著「自家製 文章読本」」
また横道にそれるが、小野教授についても触れておく。七高の工科を1920年(大正9年)に卒業した浅川勇吉氏(日本大学工学部名誉教授)が「昭和52年度東京七高会会報」に小野教授について「七高開設以来数学担当で在任中に逝去された小野藤太先生にあざなえる関係である。小野先生は熱烈なる指導精神を内に蔵し外には研究に挺せられ内外に篤き信望を寄せられたと聞くが、自分たちが入学する一年前に病魔に襲われ不惑の齢を迎えることなく惜まれて物故された。その先生にまつわる一佳話である。先生は村上先生と同じく独学にて高等教員資格を得られ七高に迎えられた。若い時代には奇しくも仙台で勉強された。自分は先輩から先生の高潔なるご人格と独特なる指導精神を誇らしげに追想するのを聞いた話の一節に、先生は苦学して勉強された時代には中学で習字の先生をしていた。そのとき乞われるがま々に東北学院礼拝堂の塔に「天主堂」と書いたことがある、という一齣があった。自分は大学を出て東北大学金属材料研究所に奉職することになった。先ず小野先生の文字を拝見することが念願であった。東北学院は繁華街となった東二番丁にあった。礼拝堂の塔には石に彫刻された天主堂の文字は立派に眺められた。雄渾というか独特な風格ある文字に接し、ほのかにそのかみを偲ぶのであった」と寄稿している。小野教授が独学で教員資格を得られたことや、ザビエル教会以前にも東北の教会に文字を残されていたことが記されている。
[図⑮]「浅川名誉教授の寄稿文」
ではなぜ「ザビエ」になっているのか。前述した1995年1月19日発行の南日本新聞の中で、ザビエル教会の永山幸弘司祭は「明治時代はラテン語によるフランシスコ・ザベリオが一般的。ラゲ神父がフランスの宣教会出身だったためフランス語読みのフランソア・ザビエと混合したのかも」と推測している。
ザビエル公園を管理している市公園緑地課に聞くと、永山司祭の考えを踏襲してか「詳細は不明だが、ラテン語読みのフランシスコ・ザベリオとフランス語読みのフランソア・ザビエが混同しているのではないか」と答えてくれた。
「鹿児島に来たザビエル」の著書の中では、「ザビエル聖堂を建立したのは、パリ外国宣教会所属のフランス語系ベルギー人のラゲ神父である。従って、ザビエル公園の記念碑に残っている「フランシスコ.ザビエ」の「ザビエ」はフランス語の名残りと言えよう。「フランシスコ」もフランス語で記すとすれば「フランソア」とすべきであろう。「フランシスコ」は定着していると考えられたのだろうか」と小平教授は解説している。
ということで、記念碑に「ザビエ」と書かれているのは、フランス語系ベルギー人のラゲ神父のフランス語読みの影響のようだ。神父と親交のあった小野教授が書いたからこそ「正確」に「ザビエ」になった。もし、この仕事だけで関係した鹿児島人であれば「ラゲ神父どんは発音が悪(わ)りで、ザビエち聞こえたどん、ザビエルち書(け)とけばよかが(鹿児島弁はいいかげんです)」ということで「間違」って「ザビエル」となっていたかもしれない。
今でこそ教会内外でザビエル表記が定着しているが、ザビエルの表記については様々なものがある。2017年6月6日の朝日新聞には次のような記事がある。
キリシタン史に詳しい元桐朋学園大学短期大学部教授の岸野久さん(74)によると、ザビエルはスペイン語の発音で「ハビエル」。ザビエルの出身地、バスク地方では「シャヴィエル」になる。ミサの正式な言語だったラテン語では「ザベリヨ」で、「ザビエル」は英語読みに由来するという。
宣教師が来日した16世紀以降、国内でもさまざまな呼び方があったようだ。歴史学者の故吉田小五郎は、文献をめくるうちに、登場する宣教師の名前がバラバラなことに気づいて驚いた。しびえる、ジヤヒエル、娑毘惠婁……。確認しただけでも読み方は60以上に及んだ。言語によってつづりが違い、仮名で書き残したため表記がさらに増えたのだろうと指摘する。
歴史の教科書でも呼び名は分かれる。東京書籍は中学の教科書では「ザビエル」だが、高校では「シャヴィエル」。担当者は「現地の読み方に合わせるのが学会の潮流」と説明する。中学の教科書では一般的な「ザビエル」を採用しているが、今後表記を変えるか、併記する可能性もあるという。
この「記念碑」も「ザビエ」でなければ、「ギヨテとは俺の事かとゲーテ言い」のように、当時はそのような表記だったんだとすんなり納得してしまうが、たまたまフランス語表記だったため、「ル」を入れ忘れてしまったなどとの都市伝説が生まれたのかもしれない。
以上で「ザビエル滞鹿(滞麑)記念碑」の「ザビエ」問題は決着した。しかし、この「記念碑」を調べているうちに、「記念碑」の後ろに立つ「ザビエル胸像」にかかわる新たな「謎」と「とんでもない人物」の発見につながっていく。
この記事へのコメント
はじめまして。小野藤太のひ孫、小野明郎と申します。碑文の"ザビエル"サビエ"問題ですが、フランス語の"サビエ"が正解です。曽祖父は当時数学の教本をフランスから取り寄せて居り、フランス語に明るかった様で、ベルギー出身のラゲ神父もフランス語を話して居た都合も有って、フランス語発音で書いた様子と身内から聞き及んでます。碑文の字は当然ながら曽祖父です。
Posted by 小野明郎 at 2020年09月30日 14:33