2018年10月29日
福昌寺

先日、「キリシタン墓地」について書きましたが、福昌寺そのものも、次のような面白い来歴があります。
①島津氏第7代当主島津元久が1394年に建立。曹洞宗の流れをくみ、ご本尊は運慶作の十二面観音座像
②その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺に
③寺の周囲は2kmもある広大なもので、最盛期には1500人の僧侶がいた
④1549年、薩摩生まれのヤジローの案内で種子島を経てザビエルが現在の鹿児島市に上陸
⑤ザビエルは毎日2度福昌寺前で辻説法をした
⑥この時の守護大名は15代貴久で、当初は宣教の許可を与えた
⑦貴久の庇護もあって700人程が洗礼を受けた。改宗した福昌寺の僧侶も
⑧その中に、日本人初のヨーロッパ留学生といわれるベルナルドもいた
⑨ザビエルは福昌寺の住職・忍室(にんじつ)と宗教論争を交わした
⑩ザビエルは薩摩での布教をヤジローにまかせ、全国布教を願うため京都に
⑪残されたヤジローは僧侶の質問を覆す説得力がなく、キリスト教を捨てた
⑫福昌寺跡には西郷隆盛や大久保利通が座禅を組んだという「坐禅石」がある。二人を指南したのは無参和尚
⑬明治元年(1868年)政府は神仏分離令を発令。1869年薩摩藩は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、福昌寺も廃寺に
⑭1870年1月10日、いづろ波止場に泊まった薩摩の汽船「平穏丸」から、浦上から連れてこられた375人のキリシタンが降ろされた
⑮西郷隆盛は漢文の聖書を読んでいた。上の写真は、読んでいたであろう「旧約全書」。このこともあって、西郷は流刑のキリシタンを丁寧に扱わせたのだろうか
以上の様に、福昌寺には教科書にでてくるような有名人がいろいろかかわっています。また宗教も複雑に絡んでいます。
私は誰か歴史小説家が福昌寺について、歴史の流れを縦糸に関係する宗教を横糸に面白いドラマを書いてくれないかと思っています。
ヤジローの後日談も中国に逃げたという話もあれば、鹿児島の伊集院町には「墓」があります。また民俗学系統の研究書には、下甑島で彼の墓を発見し同島に伝承するクロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるというレポートもあります。
歴史小説の最後は、1873年にキリシタンたちが大浦に返される途中時化にあい、下甑島に避難した時に、そこで隠れキリシタンの末裔と出会い日本人で最初に洗礼を受けたヤジローの墓にたどり着くシーンではどうかと考えています。