2022年06月01日

暮らしの中にあった 戦争の傷跡

暮らしの中にあった 戦争の傷跡


 小高い丘の上に建つ高校に通っていた。坂道に続く80段程の石段の先に校舎が。校名が書かれた校門が、石段途中の踊り場に建っている。入学式の日「校門に門扉がないことに気づきましたか」の問いかけで、校長あいさつが始まった。鉄の扉は戦時徴用で拠出され、その残像が生徒を迎え入れていた。

 幼い頃、防空壕(ごう)に住んでいる人がいたし、遊び場の野原を掘ると小銃弾が出てきた。祖父は冬が近づくとカーキ色の国民服を愛用し、和だんすの奥にゲートルをしまっていた。祭りの日には、白装束の傷痍(しょうい)軍人の楽曲が会場に流れていた。

 戦後生まれであるが、暮らしの中に、戦争の傷跡がかさぶたのように残っているのが見えた。祖母と母は戦時中の一番の犠牲者は、国の中枢にいた人ではなく国民、庶民だったことを繰り返し話した。傷は消えても、伝えるべき記憶は消してはいけないと思った。

 ロシアのウクライナへの軍事侵攻が毎日報道されている。すさまじいミサイル攻撃が住宅、学校、医療施設、避難場所を破壊し、居住地周辺で戦闘が交錯している。必死に戦火を逃れる姿や、泣き叫ぶ女性と子どもたち。家族を失った人たちの悲嘆。瓦礫(がれき)になっていく街。

 「東側」であれ「西側」であれ、生活の場を戦場にすれば、その悲惨さは同じである。かつては自民党の政治家にも、自らの体験から野党以上に戦争反対の姿勢を崩さない議員がいた。しかし「ウラジミールと同じ夢を見てい」た男は、戦闘参加を煽(あお)るように「敵地中枢攻撃、核共有、防衛費のGDP2%以上」と叫ぶ。安倍の悪夢の道連れになりたくない。






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