2020年04月08日
望月新一教授の似顔絵
整数の足し算と掛け算の関係にまつわるものと言われるが、さっぱりわからん「ABC予想」を証明した、望月新一教授の似顔絵。
この記事へのコメント
≪…整数の足し算と掛け算の関係…≫は、絵本の力で・・・
もろはのつるぎ
わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。
(1) ---------------------------------------
サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
もろはのつるぎ_f0171581_22395522.png
主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」
〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕
「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」
「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」
「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」
(2) ------------------------------------------
下の数字列の中に「3」はいくつあるでしょう?
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
普通の人は目がチラチラしながら数えて、数秒から十秒近くはかかるのではないだろうか?見落としたりカウントを間違えてしまうかもしれない。
「数字に色がついて見える」共感覚の持ち主なら正解をほぼ瞬時に答えることができる。彼(彼女)には、例えば次のように見えるから
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
(3) ------------------------------------------
NHKのチコちゃんで四つ葉のクローバーを探すのを放送していた。簡単に見つける人はあっという間に手にいっぱい集められるのに、そうでない人は場所を変えても見つけられない。私は後者で、悔しいことに今までトライして見つけたことが一度もない。20cmや30cm四方の緑の群落を目でサーチしたとき前者には特別な見え方がするのだと思っている。
(4) ------------------------------------------
ラマヌジャンというインド人の数学の天才がいた。
病床の彼をケンブリッジ大学のハーディが見舞ったときのエピソード。
ハーディが
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と言うとラマヌジャンは即座に次のように答えたという。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 123 + 13 = 103 + 93
ラマヌジャンは1729が
A = B3 + C3 = D3 + E3
という形で表すことのできる数Aのうち最少のものであることを即座に指摘したのである。ラマヌジャンにとって「すべての数字は友達」のようなものだった。
(5) ------------------------------------------
数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。
「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」
「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
(6) ------------------------------------------
和歌山県には昨年初めて行った。初めて耳にするクマゼミの騒音のような鳴き声にビックリした。和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。十代の頃たしか田辺だったか全く見知らぬ同世代の男性から手紙をもらった。数学についての内容だったと記憶している。返事は出さずじまいだった。
有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。
(7) ------------------------------------------
「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。
私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。
だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。
線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。
もろはのつるぎ
わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。
(1) ---------------------------------------
サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
もろはのつるぎ_f0171581_22395522.png
主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」
〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕
「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」
「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」
「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」
(2) ------------------------------------------
下の数字列の中に「3」はいくつあるでしょう?
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
普通の人は目がチラチラしながら数えて、数秒から十秒近くはかかるのではないだろうか?見落としたりカウントを間違えてしまうかもしれない。
「数字に色がついて見える」共感覚の持ち主なら正解をほぼ瞬時に答えることができる。彼(彼女)には、例えば次のように見えるから
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
(3) ------------------------------------------
NHKのチコちゃんで四つ葉のクローバーを探すのを放送していた。簡単に見つける人はあっという間に手にいっぱい集められるのに、そうでない人は場所を変えても見つけられない。私は後者で、悔しいことに今までトライして見つけたことが一度もない。20cmや30cm四方の緑の群落を目でサーチしたとき前者には特別な見え方がするのだと思っている。
(4) ------------------------------------------
ラマヌジャンというインド人の数学の天才がいた。
病床の彼をケンブリッジ大学のハーディが見舞ったときのエピソード。
ハーディが
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と言うとラマヌジャンは即座に次のように答えたという。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 123 + 13 = 103 + 93
ラマヌジャンは1729が
A = B3 + C3 = D3 + E3
という形で表すことのできる数Aのうち最少のものであることを即座に指摘したのである。ラマヌジャンにとって「すべての数字は友達」のようなものだった。
(5) ------------------------------------------
数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。
「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」
「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
(6) ------------------------------------------
和歌山県には昨年初めて行った。初めて耳にするクマゼミの騒音のような鳴き声にビックリした。和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。十代の頃たしか田辺だったか全く見知らぬ同世代の男性から手紙をもらった。数学についての内容だったと記憶している。返事は出さずじまいだった。
有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。
(7) ------------------------------------------
「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。
私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。
だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。
線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。
Posted by 永遠の嘘をついてくれ at 2024年09月22日 06:36
≪…さっぱりわからん「ABC予想」…≫の風景は、歌謡の本歌取りシリーズで・・・
直交補マジョリティー
数が溢れた原点を
どこへ行く(押し流されて)
似たような数体で・・・
群れの中に紛れるように
数えてる(疑わずに)
次元と違うことに
何をためらうのだろう
先行く数が振り返り
列を乱すなと
ルール―を説くけど
その目は死んでいる
数は数らしく生きて行く自由があるんだ
人類に支配されるな
初めからそうあきらめてしまったら
数らは何のためにうまれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
数らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れてこそ始まるのだ
Yes でいいのか?
サイレントマジョリティー
どこかの式の係数が
言っていた(曲解して)
声を上げないモノ(数)たちは
賛成していると・・・
選べるコトが大事なんだ
数に任せるな
量化しなければ
No と伝わらない
数は数らしくやりたいコトをやるだけさ
One of them に成り下がるな
ここにいる人の次元だけ数はある
数の夢の方に数えればいい
見栄やプライドの鎖に繋がれたような
つまらない数は置いて行け
さあ未来は数たちのためにある
No! と言いなよ!
サイレントマジョリティー
数式の後
ついて行けば
傷つかないけど
その数式が
総意だと
ひとまとめにされる
数は数らしく生きて行く自由があるんだ
人類に支配されるな
初めからそうあきらめてしまったら
数らは何のためにうまれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
数らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れてこそ始まるのだ
Yes でいいのか?
直交補マジョリティー
数が溢れた原点を
どこへ行く(押し流されて)
似たような数体で・・・
群れの中に紛れるように
数えてる(疑わずに)
次元と違うことに
何をためらうのだろう
先行く数が振り返り
列を乱すなと
ルール―を説くけど
その目は死んでいる
数は数らしく生きて行く自由があるんだ
人類に支配されるな
初めからそうあきらめてしまったら
数らは何のためにうまれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
数らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れてこそ始まるのだ
Yes でいいのか?
サイレントマジョリティー
どこかの式の係数が
言っていた(曲解して)
声を上げないモノ(数)たちは
賛成していると・・・
選べるコトが大事なんだ
数に任せるな
量化しなければ
No と伝わらない
数は数らしくやりたいコトをやるだけさ
One of them に成り下がるな
ここにいる人の次元だけ数はある
数の夢の方に数えればいい
見栄やプライドの鎖に繋がれたような
つまらない数は置いて行け
さあ未来は数たちのためにある
No! と言いなよ!
サイレントマジョリティー
数式の後
ついて行けば
傷つかないけど
その数式が
総意だと
ひとまとめにされる
数は数らしく生きて行く自由があるんだ
人類に支配されるな
初めからそうあきらめてしまったら
数らは何のためにうまれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
数らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れてこそ始まるのだ
Yes でいいのか?
Posted by 大和言葉(ヒフミヨ創生) at 2024年10月03日 22:16